「花の色は うつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに」

古文

現代語訳

「花の色は変わってしまったものだよ、私たちの人生には無駄なことが起こるけど、それを見つめて過ごした時間は長かったんだ」という意味になります。

作者

小野小町(おののこまち)

小野小町(おののこまち)は、平安時代初期に活躍したとされる女流歌人・伎人で、多くの伝説や逸話が残されています。

彼女は才気ある女性で、歌人として多くの和歌を詠み、また伎楽(能・狂言・舞楽などの舞台芸能)の才能もありました。その容姿も美しく、多くの人から愛される存在であったとされています。

伝説によれば、小町は後宮で華やかな生活を送っていたが、ある日、上皇の愛人となり、その関係が発覚したため、都を追われたとされています。その後、旅をしながら各地で伎楽を演じ、多くの人々を魅了したと伝えられています。

小町は、平安時代初期の女流文化の中で、多彩な才能と美しさで人々を魅了し、今もなお多くの人々に愛され続けています。

この句が作られた背景

この句を作った背景には、小野小町の心情が反映されています。彼女は、平安時代末期の貴族たちの中で詩歌や踊りなどの才能を持ち、多くの男性から求婚されたといわれています。しかし、その美貌や才能が原因で、妬みや嫉妬から彼女を陥れる者もいました。

「花の色はうつりにけりな」という句は、このような人間関係の中で、美しさや才能が儚く過ぎるものであることを表現しています。また、自分自身の美しさや才能に溺れず、人生のはかなさを自覚することの重要性を訴えているとも解釈されています。

単語

【花の色】:「花の色」とは、人生や世界の移り変わりや無常さを象徴するたとえ表現として用いられています。花が咲いている間は美しく色鮮やかであっても、時が経つと花はしぼんで色あせ、消えていってしまいます。同様に、人生には何もかもが永遠ではなく、時には無駄に終わってしまうことがあるということを表現しています。

【うつりにけりな】:「うつりにけりな」とは、「移り変わってしまったのだろうか」という意味を表す古典的な表現です。この表現は、花の色が変わるように、世の中や人生も移り変わっていくことを表しています。小野小町がこの句で用いた「うつりにけりな」という表現は、その後、多くの和歌や文学作品で用いられ、日本の古典文学において非常に重要な表現の一つとなっています。

【いたづらに】:「いたづらに」は、「何の成果も得られないままに、ただただ見つめているだけである」という意味合いが込められています。つまり、詩人が眺める先に広がる景色は美しく、しかし同時に、自分の身世というものが流転することを感じ、あてにならないと感じている様子が表現されています。

【世にふる】:「世にふる」は、「世間に広く行き渡っている」という意味合いが込められています。具体的には、花の美しさは誰もが共有できる普遍的なものであり、それが今も世間に広く知られていることを表現しています。また、「わが身世にふる」という表現も、花の美しさが自分の身の回りに降り注ぎ、自分自身の内面にも影響を与えていることを暗示しています。

【ながめせしまに】:「ながめせしまに」とは、遠くを見つめているときに、目の前の景色が霞んで、ぼんやりとして見えることを表現した表現です。この句では、「花の色はうつりにけりな」という前半に対して、後半において「いたづらにわが身世にふる」という世俗的なものに流されない、静謐な境地を表現しています。詩人が美しい景色を眺めて、自らの内面に思いを馳せる様子を表しているとも解釈できます。

まとめ

この句は、花の美しさが一瞬で消え去ることを表現したもので、作者の寂しい心情を表しています。

「花の色はうつりにけりな」という句は、美しさが一瞬で過ぎ去ることを表しています。花は咲き始めたばかりの頃は鮮やかで美しい色を放ちますが、時間が経つにつれてその色彩が変化し、最終的には散ってしまいます。この句は、美しさは一時的であることを思わせます。

また、「いたづらに」という表現が用いられていることから、作者はその美しさを見ていたことが何の役にも立たなかったことを嘆いているようにも受け取れます。一方で、「ながめせしまに」は、美しさが散ってしまう姿を見つめていたことを表現しており、寂しさや哀しみを感じさせます。

この句は、一瞬の美しさと過ぎ去ってしまうこと、そしてその美しさを見つめた時の寂しさや哀しみを表現していると同時に、自然の美しさを儚さを深く感じさせる句であるといえます。

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